藤原四代のミイラ

藤原氏のミイラとは
 藤原四代のミイラは、恐らく日本に残るミイラのうち最も有名なものだろう。奥州平泉の中尊寺金色堂に平安時代末期に奥州に権勢を振るった奥州藤原氏のミイラが残されているのだ。
 このミイラとは、藤原清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)の藤原三代と、秀衡の長男泰衡(やすひら)の首、併せて四代にわたるものである。
<藤原氏系図>
 藤原経清━清衡━基衡━秀衡┳泰衡
              ┣国衡
              ┗忠衡
 ※「尊卑文脈」によれば、藤原経清は藤原秀郷の血を引くことになっている
 このうち、首だけが残る泰衡のミイラは、実は歴史的にはずっと「忠衡の首」と呼ばれていたものだったが、調査の結果、泰衡のものであることが判明している。
藤原氏ミイラ調査
 この藤原氏のミイラの調査が行われたのは、1950年9月のことである。学術的な調査が入ったのはこのときだけだと思われる。
 この調査の際には、言伝えのレベルであった全てのミイラの存在が確認された。
名前没年 享年身長
血液型
副葬品 コメント
清衡大治三年(1128)73 161cm
AB
紫絹の枕
銀・琥珀の数珠
太刀・小刀・金塊
最も保存状態悪い
基衡保元二年(1157)不詳168cm
A
白絹の枕(稗入り)
水晶の数珠・刀
秀衡文治三年(1187)66 160cm
AB
木の枕
泰衡の首の桶
最も保存状態よい
泰衡文治五年(1189)25? 不詳
B
  顔に九箇所の刀傷
額に晒し首の釘跡
 調査当時、秀衡の棺だけは明治三十年に作られた新しい棺に移されていたという。

 なお余談ながら、このときの調査団は、東京大学の柴田雄次博士ほか殆どが東京大学のメンバーで占められていた(朝日新聞社後援)。一方、1959年から行われた日本ミイラ研究グループの即身仏調査は、早稲田大学の安藤更生博士をはじめとする早稲田大学、新潟大学、東北大学のメンバーであった(毎日新聞社後援)。この2つのグループにはやや確執があったように窺われ、この二つの調査結果を併せて考察するような動きは非常に限られている様子である。
自然ミイラか、人工ミイラか
 このミイラについては、自然ミイラか人工ミイラかについて、今も議論が分かれている。
 実は「ミイラなぞをさぐる」という本では、中尊寺調査団の調査結果をもとに「秀衡のミイラには内臓がなく、代わりに古銭四枚と人の歯が沢山入っていた」と記述しているが、その他の書物にはこのような記述はなく、秀衡のミイラにも内臓は残っていたようである。

 これらのミイラを自然ミイラとする学者の論拠は以下の通り。
・遺体に切開の跡がなく、内臓も残っている。地域的に可能性の高いアイヌのミイラ作りでは、内臓を取り除くので、このミイラとは異なる
・金色堂という葬堂を立て、ミイラを残しているような事例が同時代に見られない
 従って、密封された棺を堂の高い位置に安置したことによる自然ミイラと結論付ける。
 一方、人工ミイラ説を取る学者の論拠は以下の通り。
・藤原氏のミイラは元々肥満型に近いものを、内臓をそのままにして腐敗させないことは自然では難しい。しかもこれが四代続いているとすれば、何らかの防腐処理を行っている可能性が高い
・もしも腸内に水銀系の防腐剤を注入する程度の防腐技術であれば、当時の奥州では十分可能であったと考えられる